ボカロ考察/雨とペトラ

歌詞の考察というのはけっこう難しく、音だけで決まっていて意味は特にない歌詞なんかもある。それに、具体的に深読みしようとするほど、外れる確率は高くなる。歌詞は抽象的だからこそいい部分もある。気を付けたい。

前置きはこれくらいで、本題に入ろう。

 

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記念すべき「あ」はこれ。僕は『雨とカプチーノ』『八月のレイニー』みたいな、雨の歌が好きみたいである。

曲は割と王道のJ-POPって感じ。はやりの椎名林檎進行が出てくる(バルーンさんはこの進行の曲めちゃある)。スピード感のある椎名林檎進行はやや珍しいかもしれない。

 

誰かが言った いつか空は灰になって落ちるって
妄想の世の中で 日々を喰らっている

 

「空が灰になって落ちる」とは、おそらく「世界の終わり」を意味しているのだろう。欧米ではよく使われる言い回しらしい。ヨハネ黙示録6:13「天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落されるように、地に落ちた。」あたりが関係しているようだ。

「妄想の世の中で日々を喰らっている」とはなんだろう。自分や周りの人々が、見たいようにしか世界を見ない、自分の見方に閉じこもっている、という感じだろうか。SNS時代っぽい。

 

境界線を引いてしまうのも 共感覚のせいにして
街の灯の海で 居場所を探している

 

共感覚…文字を見たときに色が一緒に見えたりするあれ。共感覚もちではないのでよくわからないが、ものの見方が人と違うから人とわかりあえず、街の中に居場所がない、みたいな感じか。

 

何処へ行くにも この足は退屈に染まって動かない
少しだけ先の景色が見たいだけなのにな

 

少しだけ先の景色が見たいと思ってはいるのに、足が退屈に染まって動かない?退屈な日常が忙しくて踏み出せないのだろうか、それとも「少しだけ先」におもしろいものがあるとはもう信じられないのだろうか。

 

雨が降ったら きっと 頬を濡らしてしまう

枯れてしまった 色ですら 愛しくなるのに

目を瞑ったら もっと 遠く霞んでしまう

 

雨が降ったら、どうして頬を濡らしてしまう=泣いてしまうのだろうか。おそらく、雨で涙が隠せるからだろう。というと、普段は人に見られたくなくて涙をこらえているのだろうか。

「(枯れてしまった)色」とはなんだろう。上の解釈と合わせると、「退屈」を打ち破ってくれる何かだろうか。だとすれば、泣いて目をつぶっていては、その何かがより遠のいてしまうという感じ?

 

煩くなった雨の音 笑い飛ばしてくれ!

 

煩くなった雨の音「を」なのか、煩くなった雨の音「よ」なのか迷うところだが、曲の感じだと、後者のほうが近そうだ。雨が憂鬱を洗い流してくれることを期待しているのだろう。

 

 

2番も書いてはみたいが、長くなってきたのでこのへんでやめる。

まとめると、主人公は他人とわかりあえなくて孤独で退屈な日々を抜け出したいと思っている。そして、何かがこの日々を打ち破ってくれると期待してしまうけど、ホントはそれじゃ何も解決しないんだなあ、みたいな歌だと思われる。2番サビ後のCメロの

独りぼっちで また 明日に期待をして

あたりも根拠になるかもしれない。

なお一人称は1回も出てこない。これが独特のぼやっとした雰囲気を醸し出しているかもしれない。

 

前にもブログで書いた気がするけど、一見満たされていても退屈な日常を暮らしている人ほど、世界の終わりみたいなものを心のどっかでは望んでしまうのかもしれないね。

 

秋が近いので『星の王子さま』をオススメする

お久しぶりです。もう秋ですね。コロナのせいでどうも季節感がないですが。せめてもの「読書の秋」感として、好きな本のことでも書いてみようと思う。

 

 

子どもの頃に読んだ絵本は、けっこう鮮明に覚えていたりする。それで読み返してみると、まだまだ新しい発見があったりする。

僕が最初に『星の王子さま』を読んだのは子どもの頃だった(何歳だったかは覚えてない)が、正直あまり印象には残らなかった。

ある程度大人になってからまた読んで、はじめて意味が分かった気がしたのだった。

 

星の王子さま』は、実は大人にこそ刺さる絵本だと思う。

全体が寓話っぽく、教訓がちりばめられている。そして名ゼリフがてんこ盛りで、会話の中で披露すれば大いにドヤれる(?)。

今から本を買うなら、『フランス語で読む 星の王子さま』は2言語で読めるので特にオススメ。

 

 

パッと見、王子さまが星をめぐるシーン(前半)と、王子さまが地球に来てからのシーン(後半)は関連性がないように思える。

しかし、読み進めるにつれて、全体を貫く軸が見えてくる。

 

このお話の中では、「おとな」がDISられるシーンが何回も出てくる。その「おとな」がまさに現代人の姿を描いているようで結構ウッとなる。

前半に出てくるのは、価値のないことにこだわって時間を浪費している「おとな」の姿である。これらが反面教師となって、物語全体のメッセージを浮かび上がらせる。後半は「ぼく」と王子さま、そしてキツネの会話を通して、メッセージがより明確に表現される。

 

全体を通して語られるのは、王子さまが自分の惑星に残してきたバラのことだ(実は王子さまは宇宙人だ)。王子さまは地球のバラ園を見て、自分のバラがありふれたものだったと気づき、自分は特別なものを何も持ってないのか、と悲しみに暮れる。

しかし、王子さまが自分のバラを特別だと思う理由を、キツネが教えてくれるのである。ここが一番重要なシーンだと個人的には思っている。

 

 

 

サラッと流しがちだけど僕が好きなエピソードとして、23章のセールスマンの話がある。

このセールスマンが売っている薬は、毎週1回飲めば水を飲む必要がなくなり、週に53分節約できるという。それを聞く王子さまの答えがよい。

「リニアが通れば、名古屋まで50分早く行けます!」というニュースを見て、なんかこのエピソードが思い浮かんでしまった…(そういえば、22章も似た内容だった)

 

 

世の中にいる膨大な人数の中で、ひとりを愛したりするのはなぜだろうか?そういう疑問に対するひとつの答えが見える気がする。

童話といいながらけっこう哲学的・抽象的なテーマで、フランス語文学っぽいといえば、ぽいかもしれない。よかったらどうぞ。

スプラトゥーン考①「マッチングがダメ」ってホント?

スプラトゥーン2を始めて2週間くらいになる。とても面白いゲームであることは間違いない。最近ではようやくエイム力がついてきて、なんとか近接戦もできるようになってきた状態である。

 

しかし、スプラトゥーンは同時に、めちゃくちゃイライラするゲームでもある。アドレナリンが出ている分、つい頭に血が上ってしまうのだ。ネットで調べてみると、イライラするのはどうやら僕だけではないようで安心した(安心するところでもないか)。

 

スプラトゥーンは面白いゲームなのに、なぜかくも多くの人がイライラしているのだろうか?

 

 

アマゾンのレビュー等でもっとも多く挙げられている不満は「マッチングの不備」である。強いプレイヤーと弱いプレイヤーが混じって仲間ガチャになってしまっている、みたいなことである。

 

「仲間ガチャ感」は、自分自身もかなり感じるところである。しかし、4対4の対戦という形式をとり、連携の手段も限られる以上、仲間運が比較的強くかかわるのは避けようがない。

 

また、マッチングの精度と時間はトレードオフの関係にある。より近いレベルのプレイヤーが8人揃うまで待っていたら、それはそれでマッチングに時間がかかるという不満が出るだろう。というわけで、ある程度は我慢するしかない。

 

というか僕は、そもそもイライラの本質は「マッチングの不備」ではないと考えている。

 

 

スプラトゥーンのレート戦はガチマッチと呼ばれ、レートに当たるのは「ウデマエ」である。読んで字のごとく、プレイヤーの腕前(以下、本当の技術の意味で使うときは漢字表記)を表すものと考えられている。しかし、実際はそうでもない。

 

ウデマエは、試合に勝つと上がり、負けると下がるシンプルなものである。問題は、ガチマッチがすべて4対4のチーム戦で行われることである。

 

4人チームは、めっちゃ下手な人がいたときにカバーするには少なすぎる。一方で、自分の腕前だけでチーム全体を勝利に導くには多すぎる。勝敗に関われる度合いはそれほど大きくないのである。

ただ、ウデマエは名前が名前なので、プレイヤーはそれを自分の実力と捉える。つまり、自分への評価が、自分ではコントロールできないものによって決定される状況が発生する。この無力感こそが、イライラの正体であると思われる。

 

 

文句を言うだけというのもアレなので、解決策を考えてみる。

1チームの人数を増やすのがもっとも単純な解決策だが、これはマッチングのスピード等の問題から現実的ではないと思われる。逆に人数を減らすと前線が作れず、陣取りゲームとしての要素が薄くなってしまう。つまり、4対4の対戦という形式は変えられそうにない。

 

ひとつの解決策は、ウデマエを勝敗だけでなく多面的な評価にすることである。

具体的に挙げるのは難しいが、キルレシオとか、ガチエリア内に留まった時間とか、ガチホコを保持してた時間とか、いろんな数値をウデマエに反映する。そうすれば負けが込んできたり仲間が回線落ちしたりしてもモチベを失わなくて済む。

勝敗はコントロールできないので、勝敗が占める比重を下げるのである。

 

 

ウデマエシステム以外にも、ガチマッチのチュートリアルを用意すべきじゃないかとか、塗りゲーなのにキルに比重を置きすぎじゃないかとか、パブロとヒッセンをテキトーに振り回すだけで当たるのはどうかとかいろいろあるが、まあそれはまた次回書くことにしよう。

 

 

 

 

 

我々は はたして/なぜ 労働しなくてはならないのか?

労働ってやだよね。僕の周りでも「働くのやだな~」といいながら就活してる人はかなり多い。一日の1/3以上をイヤなことに費やすなら、人生っていったい何なんだろうか。

そこで、いったん原点に戻って、なぜ労働をしなければならないのか?を考えてみたい。

 

なおここでは「労働はすばらしい」「労働は人生に必要だ」系の意見はスルーする。そう思うも思わないも個人の自由だからである。これは労働をする理由にはなるかもしれないが、労働をしなければならない理由にはならない。

 

もっともメジャーな理由は「生きていくには働かなければならないから」である。

一見筋が通って見えるが、これも実は、働かなくてはいけない理由にはなっていない。「生きていく」ことが絶対ではないからである。この文を「生きていかなくていいなら働かなくていい」と捉えることもできる。

一日のハッピー度を数字で表してみよう。当然ながら、死んでいたらプラスもマイナスもないのでハッピー度は0である。労働のマイナスの絶対値が大きいために一日の生活全体の合計がマイナスになるなら、死んでるほうが値は大きい=マシということになる。一日だけならいいが、これがずっと続くと人生全体で見てもハッピー度の合計はマイナスになる。

労働が生きるために必須で、かつ非常に大きなマイナスをもたらすなら、労働せずに生きられるところまで生きて、ムリになったらその時点で死ぬ、というのが合計点的には最善策となる。

 

ついでに言えば「生きていくには働かなければならない」は偽である。世の中には養われるなどして生きてる人もいっぱいいるし、それは別に悪いことでもない。

 

 

とはいえ現実的には、大抵の人はかじれるスネも限られているし、労働から逃れるために死を決意するほどの勇気もない(いくら何でもそこまでイヤではないのかもしれない)。そういう皆さんには、労働をしたくないならしなくていい、とシンプルに言うことはできない。生きていくなら生活を立てる必要はあるのは否定しようがないからだ。

 

 

しかし、「生活を立てる」は「労働する」と果たしてイコールなのだろうか。

 

労働という概念はいつ、どうやってできたのか考えてみる。 

ヒト以外の生き物(そろそろこれに名前がほしい)は労働しているだろうか。答えはNOである。では近代以前の人類はどうだろうか。原始的な生活を送るアマゾンの先住民は、労働しているだろうか。これもおそらくNOだ。

近代人以外の生き物は労働をしていないが、生活している。生活を立てるうえで、近代的な意味での「労働」は絶対ではないのだ。現実的に現代日本にする我々が労働せずに生活できるかは別問題だけど。

 

「労働」は「賃金のための作業」という意味を含む。そしてその作業は生活そのものというより生産のために行われ、「定型的」「直接は自分の役に立たない」「意義がわかりにくい」というニュアンスも持っている。

多くの人が「労働ってイヤだな」と思うのは、体力的なしんどさとかよりもこっちではないだろうか。少なくとも僕はそうである。僕が「自給自足したい」とか言っているのも、労働以外の生き方を探してみたい気持ちがベースにある。

 

ミヒャエル・エンデの『モモ』をいま読んでます。こういう話が好きな人にはおもしろいかもしれない。

 

 

 

コロナ所感(ふつう)

コロナ、思ったより早く緊急事態宣言が解除されて、落ち着いてきた感ありますね。いかがお過ごしでしょうか。僕はかぐや様のアニメをイッキ見したりして過ごしてます。

正直僕はコロナ生活はまあまあ気に入っている。すでにいろんなところで言われてていまさらだけど、コロナ禍にはやっぱりいい面もいっぱいあったね。

 

https://toyokeizai.net/articles/-/350993?utm_campaign=MKtkol_moments&utm_source=twitter&utm_medium=social

 

この間こんな記事が出ていて、深くうなずいてしまった。コロナで自分の生活を見直したおかげで、今までの生活がおかしかったのでは、と考えた人も多いだろう。

 

 

 

自分の話に戻る。まず、オンライン授業。テレワークにはいろんな苦労もあるだろうけど、少なくとも大学の授業はほぼ聞き専なのでzoom授業でもそんなに不便はしてない。僕の研究は研究(笑)なので自宅でもできる。むしろ満員電車に乗らなくてよくなったし、ゆっくり起きられるしで、いいことのほうが多い。

 

つぎに、アクティブじゃない自分を責めることが減った。前は休日をだらだら家で過ごしたりすると、謎の罪悪感で眠れなくなっていたが、いまは家から出ないのがむしろ正しい行動になっている。

アクティブじゃないといけない強迫観念が薄まり、いろんな社会活動が止まってるのを言い訳にして、アクティブではないことを正当化できる。社会活動を可能な限り避けたい身としてはありがたい限りである。

 

世の中を見てもいいことがある。テレワーク導入や9月入学など、コロナを機にいろんな議論が起きた。9月入学はもう暗雲が立ち込めているが、議論が起こったこと自体ある意味快挙である。

これを機に平成の膠着状態を脱して世の中がよくなってくれればよいし、それ以上に重要なことは「世の中は”変えてもいい”ものだ」という風潮が見え始めていることだ。

この風潮がこのまま定着してくれれば幸いである。システムを変えることができると思えれば、希望を持つこともできる。

平成の終わりを思い出す

コロナでドタバタしてる間に、令和に入って一周年を迎えましたね。この間wowakaさん一周忌の情報をツイッターで見かけ、もうそんな時期か…と思った。彼は「令和きれいだ」というツイートをしながら、令和を迎えることなくこの世を去ってしまった。

 

1年前のこの時期、普通なら大学院に入ったばかりで意欲的に研究にとりかかっているところだが、僕は無気力な生活を送っていた。

僕が大学院に入ったのは、就職から逃げた面が大きかったし、それを自覚してもいた。もちろん逃げることが必ずしも悪いわけではないけど、僕は「大学院に入る」という逃げの一手が”悪手”であることを何となく感じていた。

研究したいこともこれといって思いつかず、もとから少ない気力も卒論で使い果たしてしまっていたのだ。いまならなんとなくわかってもらえるかもしれないけど、無気力な生活は意外と精神に悪い。というわけで僕はだいぶ凹んでいた。

 

前年に親戚が亡くなったことも関係しているかもしれない。身近な人の死は予測できないが、必ず来る。しかもその悲しみはとてつもなく大きい。いつか自分の人生でもそれを経験しなければならないことを強く感じ、恐怖を覚えた。まるで銃口を突き付けられたまま生きているようなものではないだろうか?

ご存知の通り、僕は人との関わりを作るのがあまり得意ではない。つまり、僕が大事に思う人は、増えることはなく減っていくばかりなのではないだろうか?

 

そこへwowakaさんの訃報が来て、僕はさらに凹んだ。wowakaさんのボカロコミュニティへの貢献は計り知れないし、僕は個人的にも彼の音楽に愛着を持っていた。中学時代の僕にとってニコ動は数少ない癒しだったし、その中でトップを走る彼に憧れたのも自然なことだった。

 

平成も僕の学生時代も終わりに近づき、ボカロブームも去り、時間が経ってしまったことがヒシヒシと感じられた。その中で、中学時代からいままで、価値あるものを得られていないのでは?という気持ちが強くなった。

例を挙げるなら、当時自分でもボカロをやってみたいと思ってたのに、それすら実現できずに自分は学生時代を終えようとしているのだ。

時間が経つ中で、自分は何も得られずに大切なものを失っていくばかりで、僕の人生は悪くなっていく一方だ、みたいな考えが脳みそを占領してしまった。

 

当時の、なぜ世界は僕からいろんなものを奪っていくのか?というような憎しみに近い気持ちを忘れることができない。素晴らしい人が早く死んでしまい、クレーマージジイみたいなのがいっぱい長生きしてるのは一体なんなのだろうか。

 

まあ、それまで音楽なんて縁のなかった僕が音楽を聴くようになったのはボカロのおかげが大きいし、それはいまでも確実に心を豊かにしてくれてる。それに、正直まだボカロをやってみたい気持ちは捨ててない。

音楽に限らず、美しいものに感動する心を持ち続けることがせめてもの追悼かなぁといまでは思っている。

就活アレルギーとのつきあい方

僕はもうずいぶん前から、就活が嫌で仕方なかった。とかいいながら結局就活生になってしまったのだが、奇妙なことになんとかやれている。後輩の役に立つかもしれないので、ちょっとその理由を書いてみようと思う。

 

①「やりたいこと」についての考え方を変えたこと。

「自分のやりたいことを見つけよう!」等々言われても、冷静に考えて「事務がやりたい」「営業がやりたい」みたいなのはないのが普通だろう。

まず仕事のイメージがつかめないし、もしイメージをつかんでやりたい業務が見つかっても、ドンピシャでその担当になる可能性は低い(新入社員はジョブローテーションが普通だし)。

僕の場合は、もう一段抽象化して考えた結果、ちょっと道筋が見えた。つまり、会社が社会のためにやってることに共鳴できるか、である。

自分が会社のために働く、それで会社が社会のために動く、そうやって自分が間接的に社会に対して影響を与える、という図式を作れれば、やることが何であっても、ある意味「やりたいこと」に関わってるとはいえる。詭弁くさいけど。

 

あ、あと「業界」っていう考え方は大切だと思う。志望企業を探すより先に、志望業界をしっかり探したほうがいい。

 

②ある意味自信を失ってしまったこと。

大学に入るくらいまでは、時間さえあれば自分にはすごいことができると思ってきた。しかし、僕は大学入学からいままで無気力から立ち直れず、ずいぶん時間を浪費してしまった。

特に大学院入学以降は時間が有り余っていたのに、研究も全然進まず、課外活動でめぼしい成果も出せず、自分は何もやってないという焦りばかりが募って頭がヘンになりそうだった。僕は何かを成し遂げる器ではないと感じざるを得なかった。

そういう経験から、たとえ一会社員でたいしたインパクトはないにしても、毎日なんかやることがあって、それでなにかに貢献できるならそれでいっか、とも考えるようになった。

 

③やりたくないことはできるだけやらないと決めたこと。

僕はOBOG訪問とかやりたくないな~と思っていたんだけど、それで受かるのか不安に思っていた。しかし、本当にやりたくないのでやらないことにした。それで落とされるならまあいいや。

 

 

ここに至るまでにはずいぶん迷走した。Iターン人材を募集するサイトや、なぜかニュージーランドの就職口を探すサイトも登録した。その結果わかったのは、どういう進路を取っても茨の道に変わりはないことだった。

Iターン人材は地元への深いコミットメントが要求されて、濃厚な人間関係を苦手とする僕には厳しかった。NZは職歴もないガイジンなんか雇ってくれなかった。

ただ、迷走しつくして気持ち的には軽くなった。新卒で採用されたところで一生働く時代でもないし、職歴ありの状態でまた海外求人を探してもいい。

正直どこにも採用してもらえないなら自給自足でもなんでもするし、それができなければ野垂れ死ぬだけだと考えれば別に怖くもない。生きていくってだけなら、難しく考えなくても、食うものさえあればいい。

 

 

 

就活が近づくと、どういう手順で内定まで行くのかが見えてくるので、そういう意味ではラクかもしれない。どんなにくだらなくても、作業だと思ってこなせば進んでいける。でもなんというか、実際に関わってみるとやっぱりしょうもないなあとは思う。

兵士型というか、深く考えずに言われたことをそつなくこなすタイプしか就活ではウケないし、みんながそういう人間を装って動いてるのは滑稽な感じもする。でもまぁいまのところ、代わる方法もないのかもしれない。採用の方々はわりと優しいしいい人だと思うけどね。