我々はいつまで「忘れてはならない」のか

今年も3月11日がやってきた。震災を忘れてはならない、風化させてはならない、みたいな番組が流れる。

しかし、東日本大震災以降だけでも、熊本、大阪北部、胆振東部の各地震、去年の台風15と19号など、大災害はめじろ押しだ。これらの災害が「忘れない」番組を組まれないのはなぜだろうか?

 

たとえば、東日本大震災の直前にNZで大地震があり、多くの人が亡くなった。その犠牲者は悼まなくていいのだろうか?2016年の台湾の地震は?紛争とか旱魃とかコロナウイルスで亡くなった人々は?悼まなくていいとしたらなぜ?

 

 

いったん、自分の記憶を振り返ってみる。茨城県の中学生だった僕は、授業中に経験したことのない揺れを体験した。校舎がみしみし軋んで怖かった。帰ったら棚から食器が落ちて割れていた。親は帰宅困難になった。数日間は備蓄していた食べものでなんとかした。

 

とはいえ、電気は止まっていなかったし、ほかのインフラも数日で復帰した。親は次の日に帰ってきた。親戚も友達もみんな無事だった。学校も新年度からはふつうに授業をし、電車も1か月そこらで復旧した。震度5強の揺れを体験した僕にとっても、震災は遅くとも3か月くらいで”終わった”。

 

全国的にみれば、こういう経験をした人さえ少数派だ。つまり、多くの国民は震災を経験していない。震災はニュースの中のできごとにすぎないし、被災者は顔も知らない人々だった。にもかかわらず、テレビは毎年震災特集を組む。なぜ、我々は「日本は震災を経験して~」とか言い、毎年震災を”思い出す”のだろうか?

  

 

ひとつの説は「震災を忘れてはならないというのは、世の中をうまく回すための方便なんじゃないだろうか」ということである。

 

震災後、「災害でも秩序を守る日本人」みたいなのがさかんに喧伝され、日本礼賛番組もずいぶん増えた気がする。(日本の経済力が微妙になり始めたせいもあるかもしれない。)

 そもそも、いま震災番組を好んで見てる人々の大半は『アルマゲドン』かなんかを見てるのと同じ感覚で、なんとなく”泣ける”ドラマを震災に求めてるだけじゃないだろうか。

マスメディアは震災番組を作って視聴率を取る。視聴者は感動的な震災番組を見て、”日本人としての誇り”とかなんとかを手に入れる。誇りを奪われて生きている人々にとってこれ以上の癒しはあるまい。

 

さらに言えば、2010年代の先進国では、社会の分断がかなり問題になった。国民を(というか、人間を)”団結”させるために、「共通の敵を作る」という方法が古今東西で利用されてきた。2010年代の日本にとってはそれが震災だった。

こうして国も積極的に震災を「国難」として扱い、国、マスメディア、国民のwin-win-win関係ができあがった。まあ、復興支援も巨額なだけに、そうする必要があった部分はあるかもしれない。

 

 

もちろん震災から得た教訓を引き継ぐことは重要だし、被災者・被災地への援助は必要である。被災者や遺族に自然な共感を覚えるのもよい。しかし「日本国民たるもの、震災を忘れてはならない」みたいな話になってしまえば、教訓を見逃すことにもつながりかねない。

こういう言い方は反論しにくいだけに強力である。国民自身が「震災を忘れてはならない」を内面化し、「忘れている」とみなした人々を攻撃するようになるおそれもある。

震災を”正しさ”の波に浸食させてはいけない。書かれるべきは歴史と地学の教科書であって、道徳の教科書ではない。

 

僕は震災を忘れていない。しかし、誰もが顔も知らない人々のためにいつまでも心を痛められるわけではないし、そうする必要もない。だから、タイトルの疑問に対する答えは「忘れても責められるべきではない」である。我々には忘れちゃいけないことがただでさえ山ほどある。ESの提出とかね。

我々が忘れなくたってどうせ100年経てば誰も覚えていないのだ。問題は、そのとき生きてる人々が災害から身を守れるかどうかである。