受けいれる心(2)-取り柄かLOVEがないと人は死ぬ

いきなり酔ったオッサンみたいな自分語りだけど、僕は中学までは優秀な生徒だった。

しかし、無気力が祟ったのか、高校、大学と進むにつれて成績は輝きを失い、僕はいわゆるアイデンティティ・クライシスに陥った。成績優秀だけがアイデンティティだったのだから当然である。

 

そういうわけで、僕は大学時代を、自分は何者でもないのではないか、という恐怖に駆られて過ごした。何者かになるため足掻きはしたが、やりたいわけでもないし恐怖で頭がいっぱいなのに上手くできるはずもなく、右往左往するばかりだった。 

 

優秀でなくなってしまったら、誰も僕に寄り付かなくなるのではと恐れていた。優秀じゃない経験がなかったし、それきっかけでできた友達も多かった。

しかしある時、僕が優秀だからではなく、ただ友達でいてくれる友達もいるじゃん、と気づいた。取り柄がなくなったら誰も自分に目を向けない、というほどでもなかったのだ。

  

そういえば高校のとき、高校生クイズを見た。出場者は同年代で、我々よりだいぶ優秀である。

そういう奴らを見て、負けてる自分が悲しくならないのか、と友達に聞いてみた(僕は悲しくなっていたので)。反応は「べつに…次元が違うから」というものだった。

当時はピンとこなかったのだが、彼らは自分を、優秀さ一軸ではなくいろんな軸の総体として評価していて、ほかの人も自分をそういうふうに評価しているとわかっていたのだろう。

 

 

人間は基本的に(「自分はそうじゃない」をかわすための言葉です)ほかの人から認められたいと思う。

認められる第一の方法は、特殊な能力を持つことである。その人にしかできないことがあるなら、その人は受け入れられる。そういう意味で、取り柄は”かけがえのない存在”になる方法のひとつである。

 

しかし、大半の人にはそんな取り柄はない。取り柄のない人々がアイデンティティを作り上げるためには、LOVEが必要である。自分にしかない味をほかの人が認めてくれること、といってもいいかもしれない。なおここでいうLOVEは、広義のLOVE(兄弟愛とか友情みたいなのも含む)である。 

  

もちろん両方あるのが理想だが、最低でもどちらか一方は確保したい。両方失ってしまうと「自分は誰にとってもどうでもいい存在である」という状態になってしまう。これはキツい。(両方ない人々は、過剰に人に奉仕することで自我を保っていたりする)

 

大学に入るまでの僕の人生は、大人からの評価がすべてで、友達にはあまり目を向けることができていなかった。いまでも僕は自分を大人の軸で評価してしまうが、意識的に評価軸を転換するように心がけている。

僕は玉ねぎをよく食べるけど、それはいちばん栄養豊富だからでも、いちばん安いからでもない。なんなら単体でいちばんウマいからでもない。玉ねぎにしか出せない味があるからである。人間もそんなもんかな。よくわからんけど。