誤解を恐れずに言うと、僕は決められないと思っている。いや、僕は別に同性愛嫌いでもなんでもないので、とりあえず読んでみてほしい。5分くらいで読めます。
僕はジェンダー論については特に詳しくない。例の名物講義も、信者がキモすぎたのと、水曜5限は帰りたいというので結局とらなかった。なので本来口を出すのもヘンな感じなのだが、生き物をやってる人の目線もあればおもしろいかなーと思って書いてみる次第である。
リベラルな人の考えでは、性別とは心の性で決まるもので、体の性は副次的なものである。コンサバな人の考えでは、体の性によって心の性が決まる。
僕にはこれらはどちらもピンとこない。
上の2つのアイデアには、ともに「心の性」というワードが出てくる。しかし、そんなものは実在するのだろうか?
確かに、男女で考え方の差はある。そしてそれは、ホルモンの違いによってもたらされる部分が大きいと思われる。しかし、皆さんもご存知の通り、男性にも女性ホルモンはあるし、逆もまた然りである。ホルモンのバランスは個人差があるし、一人の中でも変わる。
しかも男女差はあくまで傾向である。平均値と個別の状態はまったく別物だ。「むしタイプの種族値平均が低いから」と、メガヤンマもウルガモスもハッサムも使わない奴がいたら「は?」ってなもんであろう。AIでも男女の脳を100%の精度で見分けることはできないらしい。
と考えれば、人間の心を男性・女性にわけるのはムリだ、と考えるのが自然ではないだろうか?
上記のリベラルな考え方は、心にも男と女があることを前提としている。でも、私の心は100%男性的です、女性的です、みたいにきっぱり言えるほど、人間の心は単純で不変なものなのだろうか。実際はみんな、その2つの間をたゆたっているのではないだろうか。
心の性がアナログなものであるなら、それをディジタルに捉えようとすることは、むしろ「男/女とはこういう考え方をするもんだ」みたいな前提をムリに作ることにつながってないだろうか。
では、性別とはどうやって決まるものなのだろうか。
じつは同性愛は(いや、同性間の繁殖行動は)、ヒト以外の生き物でも結構ふつうにみられる。僕はカブトムシがオスどうしで交尾しようとするのを見たことがある。
しかし、これを見て「どっちかは本当はメスなのかもしれない、外見だけではわからない」なんて言う人はいない。身体的特徴がオスならオスである。(性的対象と性自認は別物?たとえ話なので置いといてほしい)
ヒトでもこの定義を採用してはどうだろう。つまり、性別とは身体的特徴の一種であって、Y染色体の有無だけで決まる。身体的特徴で内面が決まることはなく、男だから、女だからどうとか言うのは、おなかが減ったからイライラするとか、そういう程度の話でしかない。体の性別で性別を判断するのが間違いなのではなく、性別で中身を判断するのが間違いだという考え方である。
これを採用すると、男だから成功を求めるべきだとか、女性を好きにならなきゃいけないとか、スカートを履いちゃいけないとか、免許はMTじゃないといけないとかは否定される(僕はAT限定の免許を取ってそう言われたことがある笑)。女性だからおしとやかでないといけないとかも、もちろん否定される。性別で中身を決めようとしているからである。
同時に、自分は女性だと思うから女性なんじゃないか、というのも否定される。もちろん、男性の体に違和感があって、女性的な体になりたいので手術を受けるというのは本人の自由だが、本当に女性になれるわけではない。
…とえらそうに語ってみたんだけど、ジェンダー論界隈でこういうアイデアが主流じゃないのにはなんか理由があるんだろうか。誰か教えてください。