アポカリプスを望む心

2011年の震災では2万人近い人々が亡くなった。原発事故が起き、この先何十年も住めない場所が出現した。人々は放射能汚染と巨大な余震におびえて生活していた。戦後史に残る出来事に違いない。

しかし、正直に言うと、僕はあのとき味わったヘンな高揚感を忘れることができないのだ。

 

当時の僕は中学2年生で、なぜか人生が急につまらないものに感じていた。

とくに目立った不幸があったわけでもないけど、中2のときのクラスは嫌いだったし、家庭にも味方がいないと感じ始めていた。まあ、こういうことは(とくに男の子には)誰にでもあるのかもしれないし、引っ越ししたことなんかが関係していたかもしれない。

 

そんななかで起きた震災は、世界をガラッと変えてしまう力があるように思えた(実際はそうでもなかったけど)。いままでの日常とオサラバして、新しい生活が始まるのかもしれない、という、ある種の希望みたいなものを感じてしまったのだ。

 

21世紀に住んでいる我々には、終末思想は現実味あるものにはとても見えない。

核戦争も、なんたらの予言による世界の終末も、もう誰も信じてない。生ぬるい、退屈な、疲れるだけの日常がただただ続いていくだけだと、人々はわかっているのだ。

 

日常を打ち破る”マネ”をすることが、日常を変えられない人々にとってせめてもの救いだった。人々は「祭り」によって日常を打ち破ってきた、一方で現代では、日常と非日常の境があいまいになっている、とどっかで読んだことがある。

そう考えると、あの震災はある種の”祭り”だったといえるかもしれない。

強大な力によって、盤石に見えた秩序が破られ、世の中が混乱する。秩序の崩壊は、しばしば抑圧からの解放と一体である。とくに、秩序が自分のためのものではないとか、秩序によって搾取されていると感じる側の人間にとっては。

 

大部分の人は、学校や会社や家庭に詰め込まれ、エサを与えられて生きるだけの存在だ。死の危険はほぼない代わり、生の実感もない。

そういう存在にとって、檻から解き放たれ、生死をかける場面が現れれば、ヒリヒリするような快感を覚えるに違いない。

 

ここまで読んでもう気づいてるかもしれないが、いまもまさに同じようなことが起きている。

早く元通りの日常を取り戻したい、なんて芸能人や”正しい”人たちは言うけど、これを読んでる皆さんはそう思ってますか?心のどこかでは、世界を丸ごと革命してしまうようなアポカリプスを望んでないでしょうか。

 

(追記)対処法はもちろんある。人々が、生の実感のある、充実した日常を送ることである。それができない人が増えたときには、世の中はめちゃくちゃになるに違いない。そして僕は現時点で、多くの人々が充実した日常を送れているとは思っていない。