平成の終わりを思い出す

コロナでドタバタしてる間に、令和に入って一周年を迎えましたね。この間wowakaさん一周忌の情報をツイッターで見かけ、もうそんな時期か…と思った。彼は「令和きれいだ」というツイートをしながら、令和を迎えることなくこの世を去ってしまった。

 

1年前のこの時期、普通なら大学院に入ったばかりで意欲的に研究にとりかかっているところだが、僕は無気力な生活を送っていた。

僕が大学院に入ったのは、就職から逃げた面が大きかったし、それを自覚してもいた。もちろん逃げることが必ずしも悪いわけではないけど、僕は「大学院に入る」という逃げの一手が”悪手”であることを何となく感じていた。

研究したいこともこれといって思いつかず、もとから少ない気力も卒論で使い果たしてしまっていたのだ。いまならなんとなくわかってもらえるかもしれないけど、無気力な生活は意外と精神に悪い。というわけで僕はだいぶ凹んでいた。

 

前年に親戚が亡くなったことも関係しているかもしれない。身近な人の死は予測できないが、必ず来る。しかもその悲しみはとてつもなく大きい。いつか自分の人生でもそれを経験しなければならないことを強く感じ、恐怖を覚えた。まるで銃口を突き付けられたまま生きているようなものではないだろうか?

ご存知の通り、僕は人との関わりを作るのがあまり得意ではない。つまり、僕が大事に思う人は、増えることはなく減っていくばかりなのではないだろうか?

 

そこへwowakaさんの訃報が来て、僕はさらに凹んだ。wowakaさんのボカロコミュニティへの貢献は計り知れないし、僕は個人的にも彼の音楽に愛着を持っていた。中学時代の僕にとってニコ動は数少ない癒しだったし、その中でトップを走る彼に憧れたのも自然なことだった。

 

平成も僕の学生時代も終わりに近づき、ボカロブームも去り、時間が経ってしまったことがヒシヒシと感じられた。その中で、中学時代からいままで、価値あるものを得られていないのでは?という気持ちが強くなった。

例を挙げるなら、当時自分でもボカロをやってみたいと思ってたのに、それすら実現できずに自分は学生時代を終えようとしているのだ。

時間が経つ中で、自分は何も得られずに大切なものを失っていくばかりで、僕の人生は悪くなっていく一方だ、みたいな考えが脳みそを占領してしまった。

 

当時の、なぜ世界は僕からいろんなものを奪っていくのか?というような憎しみに近い気持ちを忘れることができない。素晴らしい人が早く死んでしまい、クレーマージジイみたいなのがいっぱい長生きしてるのは一体なんなのだろうか。

 

まあ、それまで音楽なんて縁のなかった僕が音楽を聴くようになったのはボカロのおかげが大きいし、それはいまでも確実に心を豊かにしてくれてる。それに、正直まだボカロをやってみたい気持ちは捨ててない。

音楽に限らず、美しいものに感動する心を持ち続けることがせめてもの追悼かなぁといまでは思っている。