我々は はたして/なぜ 労働しなくてはならないのか?

労働ってやだよね。僕の周りでも「働くのやだな~」といいながら就活してる人はかなり多い。一日の1/3以上をイヤなことに費やすなら、人生っていったい何なんだろうか。

そこで、いったん原点に戻って、なぜ労働をしなければならないのか?を考えてみたい。

 

なおここでは「労働はすばらしい」「労働は人生に必要だ」系の意見はスルーする。そう思うも思わないも個人の自由だからである。これは労働をする理由にはなるかもしれないが、労働をしなければならない理由にはならない。

 

もっともメジャーな理由は「生きていくには働かなければならないから」である。

一見筋が通って見えるが、これも実は、働かなくてはいけない理由にはなっていない。「生きていく」ことが絶対ではないからである。この文を「生きていかなくていいなら働かなくていい」と捉えることもできる。

一日のハッピー度を数字で表してみよう。当然ながら、死んでいたらプラスもマイナスもないのでハッピー度は0である。労働のマイナスの絶対値が大きいために一日の生活全体の合計がマイナスになるなら、死んでるほうが値は大きい=マシということになる。一日だけならいいが、これがずっと続くと人生全体で見てもハッピー度の合計はマイナスになる。

労働が生きるために必須で、かつ非常に大きなマイナスをもたらすなら、労働せずに生きられるところまで生きて、ムリになったらその時点で死ぬ、というのが合計点的には最善策となる。

 

ついでに言えば「生きていくには働かなければならない」は偽である。世の中には養われるなどして生きてる人もいっぱいいるし、それは別に悪いことでもない。

 

 

とはいえ現実的には、大抵の人はかじれるスネも限られているし、労働から逃れるために死を決意するほどの勇気もない(いくら何でもそこまでイヤではないのかもしれない)。そういう皆さんには、労働をしたくないならしなくていい、とシンプルに言うことはできない。生きていくなら生活を立てる必要はあるのは否定しようがないからだ。

 

 

しかし、「生活を立てる」は「労働する」と果たしてイコールなのだろうか。

 

労働という概念はいつ、どうやってできたのか考えてみる。 

ヒト以外の生き物(そろそろこれに名前がほしい)は労働しているだろうか。答えはNOである。では近代以前の人類はどうだろうか。原始的な生活を送るアマゾンの先住民は、労働しているだろうか。これもおそらくNOだ。

近代人以外の生き物は労働をしていないが、生活している。生活を立てるうえで、近代的な意味での「労働」は絶対ではないのだ。現実的に現代日本にする我々が労働せずに生活できるかは別問題だけど。

 

「労働」は「賃金のための作業」という意味を含む。そしてその作業は生活そのものというより生産のために行われ、「定型的」「直接は自分の役に立たない」「意義がわかりにくい」というニュアンスも持っている。

多くの人が「労働ってイヤだな」と思うのは、体力的なしんどさとかよりもこっちではないだろうか。少なくとも僕はそうである。僕が「自給自足したい」とか言っているのも、労働以外の生き方を探してみたい気持ちがベースにある。

 

ミヒャエル・エンデの『モモ』をいま読んでます。こういう話が好きな人にはおもしろいかもしれない。