「心の中の毒」について

この記事で書く内容は深夜テンションの自分語りだし、しかも単なる思索なので退屈な人はすごい退屈だと思う。けど書く。

 

おそらく僕と何度か会ったくらいの人は、僕を穏やかで理性的な人間だと思うと思う。確かに僕は普段めったに怒りをあらわにしたりすることはない。

しかし僕は内面ではいつも何かに怒ったり悲しんだり、毒づいたり責任をなすりつけたりしている。いつも猛毒を心にたぎらせる、感情的な人間なのである。

 

もちろん僕の内面にある毒が人より強いものかは、ほかの人の心を覗き込むことができない以上、わからない。しかし僕は、そうであるという確信をもっている。

 

僕はときどきぽろっと言った言葉で人をバッサリ傷つけてしまう。心に浮かぶのが、批判や非難や侮蔑の言葉ばかりで抑えつけるのに苦労する、ということもある。加えて言えば僕は「みんながなんとなく善であると信じているもの」が大嫌いである。

 

つまり僕は、心の中にわいてくる声を抑えつけることによって、はじめて社会的でありうる。僕が「ありのままの自分」とかいう言葉を信じないのもこの辺が大きな理由の一つかもしれない。

まあ、そんなことは誰にもあって、相手に与える害に釣り合わないほどの罪悪感を僕が持ってしまってるだけかもしれない。とはいえ、これは主観的にはあまり差がない。

 

実を言うと、人のためを思って自分の内面の毒を隠しているのを、ある種の美徳と思わないでもない。毒をまき散らしている人よりはだいぶマシと言っていいだろう。

しかし、内面に強い毒を抱えてない人は、そんな我慢をする必要自体がないわけで、つまりこの「美徳」はそもそも不要である。

僕がやってるのは、単にマイナスをゼロにすることにすぎない。そうすると、美徳とは?という感じになってくる。

 

侵入思考的に次から次へと湧き出してくる毒を発散する場所がないとなると、当然それは心の中に溜め込まれることになる。それで自家中毒になり、苦しくなるばかりである。こんなことで苦しんでいても何の生産性もないし、こんなことで苦しむから僕はクズなのである。

結局、自分を許すことができない限り、他人を許すこともできない、逆も真なり、という単純な話かもしれない。